メニュー 閉じる

終戦記念日 -人間の行動は「死への恐怖」から起きている-

日本では、8/15を「終戦記念日」としています。
もっと詳しく調べていった方が良いのでしょうが、僕が調べてわかったことは

 

あくまでも、1945年8月15日に天皇が戦争後の日本の在り方を定めたポツダム宣言の受諾を日本国民と大日本帝国軍人に「玉音放送」という形で直接語り掛けた日であること。武器を置き、敵対行為をやめるように命じたもので、戦闘状態をいったん休止する「休戦宣言」をした日だといえる。

実際に、日本がポツダム宣言を受諾したのは8月14日であり、そのことは全世界に公表されていた。

 

 

8/14にポツダム宣言が受諾し、翌日15日に国民全員に「日本が戦争をすることを止めました」と声明を発表したことから「終戦の日」と定めたみたいです。

世界という視点でみると、日本の降伏調印式は1945年9月2日、東京湾上に浮かぶアメリカ戦艦ミズーリ号でおこなわれたようで、その状況をラジオの実況中継で全世界に放送されたそうです。
当時のアメリカ大統領であるトルーマン大統領は、ラジオの実況中継後、全国民に向けてラジオ放送で演説し、その中で9/2を正式にVJデーとしたそうです。これが第二次世界大戦を勝利で終えたことを宣言したとして、アメリカの第二次世界大戦の終了は1945年9月2日ということになっています。

中国が軍事パレードを予定しているのは9/3で、中国はこの日を「日本の侵略に対する中国人民の抗戦勝利日」としています。なので、おおむね世界では「9/2ないし翌日の3日が第二次世界大戦終戦の日」という認識でしょうかね。

前置きが長くなりましたが、戦争では数々の尊い命が散っていきました。
そこで、今回は「死を考えると、ヒトの心はどのように変化していくのか?」について解説していきます。

 

 

「死の恐怖」によって起こるヒトの心の変化

 

専門的な言葉で「脅威管理理論」というものがあるようで、これは『人間の行動や文化の多くは「死の恐怖」が元となっているのでは?』ということを意味しています。
実際のところ、仏教徒たちはそのあたりを理解していて、それに沿った行動をとっているわけですが…。

人間が死への恐怖を実感したとき、どのようなアクションをするかということが、実験によって明るみになっております。
以下が、人間が死の恐怖を感じたときに起きる心の変化とされています。論文を基に僕が表現したものなので、一次情報がほしいという方は、参考文献をお読みになってください。

読んでいくと、いかに人間の行動が死の恐怖と密接な関係があることがわかります。

 

 

 

法律や秩序などにすがりつく

 

死への恐怖があるからか、法律や秩序、モラルといった確かなものすがりつく傾向にあります。
たとえば、死について考えた陪審員は、そうでない陪審員よりも10倍高い保釈金を設定するそうです。

自身の命を守るためにも、確実・計算しやすいなものを選択したくなるのでしょう。。。

 

 

 

命を粗末に考える

 

反対に、死について考えると、自身を客観視しすぎて命を粗末にする傾向もみられます。
死について意識した女性ほど公共の場での授乳を避けるようになり、自分を「ただの物体」として認識する傾向が強まったそうです。

「自分なんて、世界全体で考えれば些細な存在さ…」と達観しちゃうのでしょうか…。

 

 

 

自分が「この世に生きていた!」という証明を残そうとする

 

死の恐怖を意識すると、ヒトは「この時代を生きていた!」という証明を残そうとしがちです。
その行動は、自分の名にちなんだ名前を子どもにつけたり、「空の星に自分の名前を付けたい!」と考えたりします。また、有名人が描いた絵画に対しても、批評はしながらも、その言葉が優しいものだったりします。

つまり、ヒトは死の恐怖によって、名誉や名声といったものに寛大になるのです。

 

 

 

現在の立場にしがみつく

 

たとえば、やたらと現在の高い地位にしがみつく人がいますが、それは死への恐怖からきているとも言えます。
死の恐怖が強い参加者ほど、自分の政治的な立場を代表するリーダーを支持するようになります。もとから保守的な思想を持っている人はさらに保守的になり、少しでも「保守的・伝統的」な考え方があるなら、それを強くします。

人は得ることよりも「損したくない、失いたくない!」っていう気持ちがもともと強いので、死の恐怖によってそれが強まるのかな?って感想です。

 

 

 

攻撃的な思考になる

 

人によっては、むしろ自分が危険だと認識したものに攻撃することで、自分の命を守ろうとします。
いつもなら平和を支持していた場合でも、死の恐怖が強くなるほどテロ行動を支持する・戦争を肯定する気持ちがが高まる人がいます。

これは死の恐怖が、自身の攻撃的な性格特性に火をつけてしまうのでしょうか?

 

 

 

 

「命は尊いもの…」という価値観は持つべきだとは思いますが、実際に確認された現象は真逆…。
実際に死への恐怖が、

 

  • 名誉や名声への渇望
  • 地位や立場、大切なものなどへの執着
  • 柔軟な思考の低下
  • 紛争への発展

 

へとつながるんですね。。。
大体の人は「自分は死を恐れない!」や「死ぬときは死ぬ、覚悟している…」というダニング・クルーガー効果みたいなと思ってしまい傾向にあります。でも実際に死を実感してしまうと、自覚していない「無意識の恐怖感」が表面に現れて、自分の性格特性に沿った行動を起こすのですね。

たいていの人は不安を抱えていて、その最たるものが「死」です。
僕らは死の恐怖に対抗するために、国や神様、秩序などといった大きな構造にしがみつくのでしょう。正直なところ、これには対策はないと思うので、今を懸命に生きるしかないのかと…。

もし相手や世間が「欲にまみれた行動」や「攻撃的な態度・保守的すぎる態度」をとっているなら、それはきっと不安や死の恐怖からきていると思うと、少しは受け流せると思います☆

 

 

【参考文献】
[Evidence for terror management theory: I. The effects of mortality salience on reactions to those who violate or uphold cultural values.]
[Mother’s milk: an existential perspective on negative reactions to breast-feeding]
[Trio of terror (pregnancy, menstruation, and breastfeeding): an existential function of literal self-objectification among women]
[Mortality salience and namesaking: Does thinking about death make people want to name their children after themselves?]
[Toward Understanding the Fame Game: The Effect of Mortality Salience on the Appeal of Fame]
[The Politics of Mortal Terror]
[Mortality Salience, Martyrdom, and Military Might: The Great Satan Versus the Axis of Evil]
[The Political Effects Of Existential Fear]

 

 

 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です